2つの世界を行き来する、メルボルンで日本の小学生だった私

The author as a school child at Japanese School of Melbourne

The author as a school child at Japanese School of Melbourne Credit: Emma Sullivan

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休み時間に校庭で一輪車に乗ってぐるぐると回る数十人の子どもたち――。まるでサーカス団のよう。日本の教育システムでは、体幹を鍛えバランスと自己鍛錬を学べるようにと、小学校に一輪車が整備されています。


*この記事の英語原文「」は2022年6月29日にサリバン英眞(Emma Sullivan)により発表されたものです。

*このページにあるサリバンさんへの音声インタビューは、この記事の発表後に収録されました。インタビューの内容は記事の後に短く掲載しています。
Little Emma with her cherry red ‘randoseru’
Little Emma with her cherry red ‘randoseru’ Credit: Emma Sullivan
母と祖母に連れられてデパートのバッグ売り場に行き、ランドセルを買ったのは、私の5歳の誕生日でした。ランドセルはオランダ語でバックパックを意味する「ランセル(ransel)」が語源とされています。日本の小学生は学校に入学した最初の日から6年生を終えて卒業するまで、この特別なバッグを使います。

革製のランドセルの表面をなでたときのことを覚えています。日本のデザインという感じで誇らしげにしっかりと縫い付けられていました。本当はローズピンク色のランドセルがとても欲しかったのですが、母に説得されて、一般的に女の子用とされているピカピカのチェリーレッド色のランドセルにしました。

私たちはスーツケースを詰めて、オーストラリアにある自宅へと戻りました。私はそこでメルボルン日本人学校に通いました。地元の公立小学校ではなく、日本人駐在員の子どもたちが大半を占める小学校に入学することになったのです。私はメルボルンで生まれ、メルボルンで育ちましたが、学校の授業は日本の教育カリキュラムに沿って行われ、すべての教科を日本語で学びました。通っていたバレエ教室で友人たちに私の学校の初日の話をしましたが、私は彼らが語るティギー(tiggy、鬼ごっこ)の話や、芝生に座って食べるランチの話に驚いたものです。

それとは対照的に、私の学校の初日はすべて「秩序」に基づいたもので、それはその後6年間続きました。校長先生のあいさつがあるときは、子どもたちは背の順に列に並びました。私は小柄だったので、いつもたいてい一番前でした。その後に私たちは座り、まるで軍隊の兵士のようにお辞儀をし、教師にあいさつするときは声をそろえました。

好きだったのは書写の授業です。墨をすって漆黒のインクの海を作り出すという、習慣的な儀式が本当に好きでした。完璧に細工された筆に墨をつけて、渦を巻くように動かしました。その墨と筆を使って、古いことわざを半紙に写し書きしたものです。正しく書くのに、失敗できない一回勝負というのは、スリル満点のことでした。
Japanese School of Melbourne
Credit: Emma Sullivan
お昼を知らせる鐘が鳴ると、私たちは机を互いにつけ、灰色の斑点の付いたカーペットの上に運んで大きなダイニングテーブルを作りました。私はそこできつく二重結びされた風呂敷を解き、二階建てのお弁当箱を取り出しました。お弁当、それは母親たちによる愛の奉仕です。りんごでうさぎを作り、少なくとも5種類はある副菜をそれぞれカラフルな容器に入れ、おにぎりをハローキティの形にするために、すべての母親は早朝から休む間もなく弁当作りに追われました。ただ私のお弁当は、ほかの子のものとは少し違うことがよくありました。

日本人学校のほかの母親たちとは違い、私の母はフルタイムで働いていました。安くない学費を稼ぎ、増え続ける私の課外活動費をまかなうためです。中身が薄茶色一色の自分のお弁当を開くのが恥ずかしくなることもよくありました。私の母はお弁当の中身をあれこれ試してみることもありましたが、空になった弁当箱を私が家に持って帰るのは、その中身がご飯と餃子のときだけでした。フルタイムの仕事そして文化的な高い要求に応えることを両立するのは、大変だったに違いありません。特に子どもの食べ物の好き嫌いが激しければなおさらです。

休み時間の校庭は、まるでサーカス団のようでした。数十人の子どもたちが一輪車に乗り、バック走行をしている子もいました。日本の教育システムでは、体幹を鍛えバランスと自己鍛錬を学べるようにと、小学校に一輪車が整備されています。私は一輪車の「技」をすべて自己流で学び、疾風のように教師の横を通り過ぎることもできました。世界的なサーカス団シルク・ドゥ・ソレイユのようなスタイルで――。
School race day.
School race day. Credit: Emma Sullivan
学校では一日の授業が終わると、決められた掃除当番が掃除をしました。掃除当番はプレップから9年生(中学校3年生)まで、すべての学年に割り振られていました。濡れた雑巾を絞って教室にあるものを拭く子もいれば、掃除機の係の子もいました。私はほうきで外をはくのが好きでした。散らばっているきれいな色の落ち葉を、一つの山に集めることができるからです。私たちは幼い頃から、掃除の仕方に加えて、自分たちの学びの場である学校をどうやって大切に手入れするのかを学びました。

年齢が上がっていくにつれ、自分が周りと少し違うということが、だんだんと自分に重くのしかかってきました。生まれ育った国で「外国人」であることは、どうもしっくり来ませんでした。学校では友達がわずか数年で去っていきました。大抵の場合は父親でしたが、親のオーストラリア駐在が終わったからです。その流れのなかで私は、日本の最新トレンドにやっと追いついたと自分では思っていても、新しく入学した生徒たちは私がいかに時代遅れであるかに気づき、目を丸くしていました。

文化的な小さな「失敗」もありました。私がよく知っていた日本の風景というのは、祖母の家の周りの田んぼでしたが、それが理由でテストで0点を取ったことがあります。そのテストの質問は「高層ビルが多いのはどちらの国ですか、日本それともオーストラリア?」というものでした。

学校の授業を日本のカリキュラムに沿って行うということは、避難訓練も日本のように行うということです。地震の非常ベルが鳴ると、私たちは机の下に隠れました。いずれ日本に帰る子どもたちが日本で非常時に混乱しないようにという配慮でしょう。

学校の終業を知らせるベルが午後3時半に鳴れば、私はまたオーストラリア人に戻りました。公園にある金属製のすべり台で遊びIII度の火傷を負ったり、ディズニー・チャンネルで「レイブン 見えちゃってチョー大変!(That’s So Raven)」を見たりしていました。小学校での6年間、私はアクロバットのように2つある自分の世界を行き来していたのです。そしてそれは、二重生活を時折送るということでもありました。

ハイスクール(日本の中学・高校)からは地元の学校に通い始めましたが、それまでの自分を変える必要がありました。英語での学習と新しい環境に直面することで、私は再び「外国人」になりました。でも、あまり気になりませんでした。私は日本人学校に通ったおかげで、祖母の言った冗談に笑うことができ、2つの文化の間を途切れることなく行き来することができるからです。また私は日本人学校で、物を大切にすることの価値を学びました。私はこのことを、私のチェリーレッド色のランドセル、ほとんど傷のないままのこのランドセルを目にするたびに思い出すのです。

記事の著者・サリバン英眞さんへのインタビュー

Emma Sullivan
Emma Sullivan Credit: Emma Sullivan
インタビューではサリバンさんに、この記事を書こうと思ったきっかけや、日本とオーストラリアのルーツを持つ1人としてのこれまでの経験などを聞きました。

日本語インタビューはページ上部のタイトルの下にある、三角形の再生ボタンを押して聞くことができます。

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